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サッカー日本代表監督の通訳者変更について

3月16日午後3時。自宅でパソコンに向かっていた私は、一旦仕事の手を止めた。この日は、一週間後に迫ったサッカーW杯最終予選、対UAE戦と対タイ戦の代表メンバーをハリルホジッチ監督が発表する日であり、メンバー発表の記者会見は毎回JFAのウェブサイト上で生中継されるからだ。

日本は予選グループで2位につけているとはいえ、グループ内の勝ち点は僅差。今度のUAE戦で負けてしまったら、いよいよW杯出場が危うくなってしまう。会見の中継を見ていたサッカーファンの関心を最も集めていたのは「ミランで試合に出ていない上にインフルエンザの本田が果たして召集されるのか」という点だったと思う。もちろん私も例にもれず、今度こそ本田は呼ばれないのではないかと思っていた。しかし、会見の中継が始まった途端、全く別のことが気になってしまった。通訳が違う!この日、いつもハリルホジッチ監督の横にいた樋渡さんの姿はなく、会見の場にいたのは羽生直道さんという別の通訳者だった。私はもはや本田の去就どころではなくなってしまった。

通訳が樋渡さんではないことに気付き、驚いていたのは私だけではなかった。会見中継と同時に見ていたTwitter上でも通訳が変わったことに対する反応が多かったし、日刊スポーツでも次のようにニュースとして報道されている。

 

www.nikkansports.com

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いずれの記事にも樋渡さんと羽生さんの2名体制で通訳としてチームをサポートしていくと記載されているので、樋渡さんが解任されたというわけではなさそうだ。しかし、代表メンバー発表会見という大きなイベントで通訳者を変えるというのは、とても大胆な行動のように思われる。何か理由があったのだろうか、と思わずにはいられない。

なぜこのタイミングで会見の通訳が羽生さんになったのだろうか。会見中継後も気になって仕方なかったので、樋渡さんと羽生さんについて少し調べてみた。「なぜ羽生さんが樋渡さんと組んで通訳を務めることになったのか」という疑問については、実は案外あっさりと疑問が解けた。

JFAは、理事会の議事や報告内容を一部公開している(参照:理事会報告 | 業務・財務報告 | JFA | 日本サッカー協会)。ハリルホジッチ監督就任後、最初の代表戦はキリンチャレンジカップチュニジア戦だったが、チュニジア戦に関する理事会報告内用を記載した資料には、既に樋渡さんに並んで羽生さんの名前が通訳としてクレジットされている。つまり、羽生さんはハリルホジッチ監督就任直後から樋渡さんと一緒にハリルジャパンの通訳者として働いているのだ。羽生さんはアギーレ前監督の通訳者だったので、JFA所属の通訳としてのキャリアは樋渡さんよりも羽生さんの方が長い。「なぜ羽生さんが樋渡さんと組んで通訳を務めることになったのか」の回答は「羽生さんはハリルホジッチ監督の就任前からJFA所属の通訳だった。監督の就任に伴って樋渡さんも通訳となった。」ということだ。

前述の通り、羽生さんはアギーレ前監督の専属通訳者だった。アギーレ前監督はスペイン語話者であり、ハリルホジッチ監督はフランス語話者なのだが、羽生さんはアルゼンチン生まれで、日本語のほかにスペイン語が話せるだけでなく、英語とポルトガル語も話せる語学に長けた方らしい。日刊スポーツの記事には「短期間でフランス語を習得」したと書いてあるが、おそらくもともとフランス語もできて、短期間で通訳ができるレベルにまで語学力を上げたのだろうというくらいに解釈しておいた方が良さそうだ。調べた限りでは、羽生さん自身のサッカー経験に関する情報はわからなかったが、ヴェルディベガルタジュビロといったJクラブで監督の通訳を務めており、サッカー通訳者として10年以上の経験があるようだ。ちなみにアギーレ前監督の通訳就任前にはウルグアイ大使館で勤務していたとのこと。

一方の樋渡さんは、2002年に大学卒業後渡仏し、フランスでサッカー指導者のライセンスを取得している。フランスではPSG U-12(パリ・サンジェルマンFCというサッカークラブの12歳以下のチーム)の監督を務めていた。ハリルホジッチ監督は同時期にPSGトップチームの監督を務めている。2006年に日本に帰国した後は、JFAアカデミーというジュニア世代のサッカーアカデミーで、クロード・デュソー監督の通訳兼コーチを3年ほど務めており、2015年にハリルホジッチ監督の通訳に就任するまではJFAアカデミーのU-14、U-15男子コーチ、U-18女子監督を歴任している。経歴からわかる通り、樋渡さんはやはりサッカー指導者であり、本職の通訳者ではない。しかし、指導者としては資格も経歴も十分にある上で通訳の経験もあるということで、監督とタッグを組んでチームと監督・コーチ間の意思疎通をサポートする役割には適任だろうと考えられる。

経歴を見れば、羽生さんはやはり通訳者としての経験が豊富なため、短時間でその場にふさわしい言葉を選ぶことや、時には場の空気を読むことなど、樋渡さんと比べると通訳者としてのスキルが高いのかもしれない。樋渡さんの就任直後、通訳者は1人だけでなく複数いた方が良いのではないかとか、マスコミ向けとチーム(選手)向けの通訳を分けた方がいいのではないかといった声があった。この時期に記者会見に臨む通訳者を変更した理由として考えられるのは、羽生さんのフランス語通訳者としての実力が上がってきたのでマスコミ向けに羽生さんが通訳を担当することにしたのか、体調不良など何らかの事情で樋渡さんが会見に出席できなかったか、あるいはその両方のどれかなのではないか。フランス語が話せない人間としては、経歴や周辺情報から考えることしかできず、推測の範囲内でしかないが。2月23日深夜(24日未明)のUAE戦では、どの選手がスタメンになるかだけでなく、羽生さんと樋渡さんのどちらがベンチ入りするのかも楽しみだ。

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完全な余談だが、樋渡さんが大学卒業後、ほとんど何のツテもないところからフランスに渡ってPSG U12でコーチを務めるようになるまでの手記をインターネット・アーカイブ上で読むことができる。

web.archive.org

樋渡さんの行動力やコーチ業への情熱に驚かされるとともに、この時点(2004年)で既に「言葉」や「文化の違いを伝える」といったことに関心を持っていたことが現在の立場につながっているのだろうと思わされる。

テレビ東京のサッカー番組『Foot x Brain』にハリルホジッチ監督が出場した際に、通訳として帯同していた樋渡さんは「監督の通訳は大変か?」と質問され、

監督は完璧主義者ですから、それに皆が応えなきゃいけないというので

日々僕もレベル上がりますね。

楽しいです、とにかく。それだけです。

と回答している。 テレビ向けの回答かもしれないが、2004年の手記ともあわせて、この人はメンタルが本当に強い人なんだろうなという印象を受けた。

通訳者が交代した理由が気になって色々と調べた結果、樋渡さんてなんてスゴイ人なんだ......と深く関心するに至り、今後ますます応援していきたいと思うようになった。