弾丸一時帰国日記 その2

4日間だけ日本に帰国した。

 

渡航の目的は祖母の葬儀に出席するためだった。

 

享年92歳。前日の夜まで元気だったが、ある朝、目を覚まさなかったのだそうだ。夏に他界した祖父の後を、少し遅れて追うように旅立っていった。

 

葬儀の場ではなんとなく、祖母の思い出話をすることはなかった。集まったのは祖母の子供たち(私の親と叔父、伯母)と数人の孫たちのみ。ごく身内だけで見送った。

 

祖父母のケアを巡って、親たちの間では色々と苦労があったのではないかと思う。亡くなった後も色々な手続きや葬儀の手配などで大変なはずだ。その辺のことを全く知らない私が色々しゃべっても仕方ないだろうと思い、何も言わずに過ごした。

 

私の目から見た祖母はとても個性的な人だった。相手の気持ちを考えずに思ったことをぽんぽんと口に出す人だと思っていた。きついなぁと思うことも言われたが、やさしくしてもらったことの方が多い。

 

何人も孫がいる中で自分だけが特別にかわいがられていたわけではないと思う。でも私が一番近くに住んでいたから、会う機会も一番多かったのではないかと思う。

 

都内に祖父と2人で住んでいた祖母は、大学生になって一人暮らしを始めた私によく「ごはんを食べにおいで」と電話をくれた。ごはんを食べに行くと、私の顔を見るなり毎回祖父が「ビール飲むだろ」と言うので、まずは祖父と私で一緒に飲み始め、その間に祖母が食事を用意してくれていた。帰りがけには一緒にスーパーに行き食料品をたくさん買って持たせてくれた。

 

祖母と私の2人で、ランチを食べにガーデンプレイスや新宿のデパートのレストランにも行った。

 

就職してからは忙しくて会いに行く回数も減っていたけれど、「メロンがあるからおいで」と電話をもらったこともあった。携帯電話の契約を手伝ったり、パソコンでわからないことがある時に手伝いに行ったりもしていた。

 

「1回使ってみたんだけどやっぱり合わなくて」と真っ赤な口紅をくれたこともあった。私にも似合わなかった。 

 

祖母は甘いものが好きだった。菓子屋の娘として生まれたので、アイスクリームもかなり早くから食べていたと言っていた。年をとってもアイスクリーム好きは変わらず、祖母の家の冷凍庫にはいつもヨーロピアンシュガーコーンの箱が入っていた。

 

カナダに2回目の移住をする直前、免許を持っていなかった私が教習所に通い始めたと言ったら「入学祝いに」とお小遣いをくれた。34歳にもなってお小遣いをもらうなんて、と思ったけれどありがたく頂戴した。祖母からお小遣いをもらったのはそれが最後になった。

 

葬儀が一通り終わると、喪服を着てパンプスを履いていた体がいやに重たく感じた。着替えた後、みんなに軽く挨拶してさっさとホテルに戻り、友人に「今東京にいるんだけどご飯行かない?」と連絡した。

 

帰国の連絡もしていなかったので相手は驚いたと思う。

 

中目のサイゼリヤで祖母の思い出話を聞いてもらった。優しい友人は「自分も思い出しちゃった」と言ってちょっと涙を流していた。

 

突然呼び出したのに話を聞いてもらえてうれしかったし、救われた気がした。自分の心に悲しみを閉じ込めていては、うまく生きていけない気がする。